「宮内庁御用達」、「皇室御用達」と聞くと、最高級品、格式高いといったイメージがあります。
宮内庁御用達を名乗れるのは、厳しい審査を通ったものだけ。まさに、品質やブランドへの信頼の証なのです。
そんな宮内庁御用達の銘品は贈り物や手土産にも最適です。
そこで、通販でも購入できる、皇室や宮内庁から愛されているお店やブランドをご紹介します。
目次
宮内庁御用達の和菓子・洋菓子
とらや
とらやは室町時代後期に京都で創業しました。
後陽成天皇の御在位中(1586〜1611)から、御所の御用を勤めています。
明治2年(1869)東京遷都にともない、当時の店主12代光正は、御所御用の菓子司として、京都のお店はそのままにして、東京へ進出し現在に至ります。[注]
羊羹と言ったら「とらや」をイメージする方も多いかもしれません。
「おもかげ」「夜の梅」などの羊羹を取り扱っています。
切り口の小豆を夜の闇に咲く梅に見立てて菓銘がつけられた「夜の梅」は、とらやを代表する羊羹です。
参考文献:「とらやの歴史:年表」とらやの和菓子 株式会社虎屋(最終閲覧日:2019/1/16)https://www.toraya-group.co.jp/toraya/tradition/chronology/
塩瀬総本家
貞和5(1349)年、宋で修業を終えた龍山徳見禅師の帰国に際し、俗弟子だった一人の中国人の林淨因が別れがたく随従して来朝しました。
林淨因は奈良でお饅頭を作って売り出しました。これが、塩瀬の歴史の始まりです。
その後、饅頭屋は、林淨因の子孫が受け継ぎ、奈良・林家と京都・林家に別れて営業することになります。
応仁の乱を避けて京都を離れた林家は、豪族・塩瀬家を頼って三河国設楽郡塩瀬村(現・愛知県新城市)に住み、姓を「塩瀬」に改めました。
再び京都に戻った塩瀬は、その後8代室町将軍の足利義政より「日本第一番本饅頭所林氏塩瀬」の看板を授かり、後土御門天皇からは「五七の桐」の御紋を拝領しました。
塩瀬のお饅頭は、織田信長、明智光秀、豊臣秀吉、徳川家康からも愛好され、明治初年からは宮内省御用を勤めることになりました。[注]
饅頭、羊羹、最中といった和菓子を中心に、フィナンシェやレーズンサンドなどの洋菓子も取り扱っています。
出典:「塩瀬総本家について:塩瀬の歴史」塩瀬総本家(最終閲覧日:2019/1/16)https://www.shiose.co.jp/user_data/about_history.php
東京・銀座 清月堂本店
明治40年(1907年)に現在本店のある銀座7丁目(京橋区木挽町7丁目)で創業しました。
また昭和9年から旧宮内省の御用を承ってきました。
創業者から、代々一つの菓子を守るのではなく、自分の代に自分の菓子を作るよう言い伝えられ、三代目正一朗が創ったきみしぐれ「おとし文」は、現在の看板商品となっています。
黄身餡をこし餡で包み、熟練の職人が、その日の湿度や餡の状態などを見ながら、手作業で蒸しています。「しぐれ」と呼ばれる「ひび割れ」を美しく仕上げるのが職人技。上品な甘さで、しっとりほろほろとした口溶けです。[注]
出典:「会社概要:4代目よりご挨拶」清月堂本店(最終閲覧日:2019/1/16)http://www.seigetsudo-honten.co.jp/co/message
コロンバン
大正13年(1924年)3月に東京大森に日本初の本格的なフランス菓子店コロンバン商店を創業します。
ショートケーキを考案し販売を始め、1915年に宮内省より大膳寮員を拝命し、宮内省(現宮内庁)へ納品を開始します。天皇のご盛儀のお菓子や皇族方の日々のお菓子、アイスクリームなど時代の最先端のお菓子をお作りしていました。
昭和6年(1931年)11月に銀座6丁目角に銀座コロンバン本店を開店。
皇室、皇族の方々や宮内省へのお届けの際には、当時としては珍しかったダットサントラック14型(日産自動車が130台だけ生産)を2台購入し、使用していました。
クッキーや焼きショコラなどの洋菓子を取り扱っています。
出典:「会社情報:コロンバンの歴史」コロンバン(最終閲覧日:2019/1/16)https://www.colombin.co.jp/corporate/history1.php
村上開新堂
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明治初年(1868年)、明治維新を経て発足した新政府の国家政策の一環として、宮内省は、当時宮内省大膳職(宮中のお食事係)であった村上光保(1837〜1903)を抜擢し横浜外人居留地に派遣し、フランス人サミュエル・ペール氏の元で洋菓子製造の修行にあたらせました。これが、村上開新堂の歴史のはじまりです。
そして、明治7(1874)年、妻茂登(もと)の名前で麹町山元町(現在の東京都千代田区麹町)に村上開新堂を創業。
宮内省の他、各国大使、華族、財閥などの方たちに洋菓子の製造販売を始めました。
歴代の当主がさまざまな工夫を重ねて日本人の舌にあう菓子を完成させ、以来140年受け継がれてきました。[注]
出典:「開新堂の歴史」村上開新堂(最終閲覧日:2019/1/16)http://www.kaishindo.co.jp/history/
麻布十番 たぬき煎餅
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たぬき煎餅は、昭和3(1928)年に創業し、創業からほどなくして、昭和7(1932)年に、皇太后陛下(大正天皇御后・貞明皇后)より御買い上げの名誉を賜り、昭和10(1935)年に「宮内省御用達」になりました。
昭和7年2月、初めて皇太后陛下にお品をお納めする時に、創業者・圓蔵は知人の画家・村上玉嘉に狸の絵を描いてもらい、その絵に自らの書を加えて包装しました。
以後、たぬき煎餅のロゴは、この狸の絵になっています。
店頭で一枚一枚丁寧に焼き上げている「直焼」には、「大狸」・「小狸」・「古狸」・「元老狸」の4種類があります。
材料、生地作り、焼きと、最後の仕上げまで、しっかりと手間ひまをかけた、一切の妥協を許さない最高級品です。[注]
出典:「当店のこだわり:宮内省御用達と〝たぬき〟への強い思い」麻布十番 たぬき煎餅(最終閲覧日:2019/1/16)http://www.tanuki10.com/kodawari/kodawari_3.html
宮内庁御用達の食品・嗜好品
銀座千疋屋
フルーツショップの老舗として有名な「銀座千疋屋」。
明治27年、初代・齋藤義政氏が千疋屋総本店からのれん分けを受け、銀座8丁目2番地に果物専門店「新橋千疋屋」を創業します。
1923年に「銀座千疋屋」に改名。
昭和6年(1931年)に宮内庁御用達を拝命。翌年、りんごの品種「スターキング」の苗をアメリカより一本だけ持ち帰り、青森のりんご園で大切に育ててもらい、初めて実った果実を宮内庁に献上します。[注]
銀座千疋屋では厳選された季節の果物はもちろん、フルーツを使ったゼリー、ジュース、焼き菓子なども取り扱っています。
出典:「千疋屋の歴史」銀座千疋屋(最終閲覧日:2019/1/16)https://ginza-sembikiya.jp/anniversary_120year/contents.html
珠屋小林珈琲
昭和12年2月、小林正男が珠屋小林商店を中央区京橋で創業します。
昭和27年に宮内庁御用達に指定されます。
御用達制度が廃止された後も、宮内庁にコーヒー豆を納入し続け、現在も皇室の方々が日常的に飲まれるためのコーヒー豆をはじめ、春と秋の年2回開催される園遊会と宮中晩餐会で出されるコーヒー豆などを納めています。[注]
出典:珠屋小林珈琲(最終閲覧日:2019/1/16)http://tamaya.coffee/
山本海苔店
嘉永2年(1849年)、初代山本德治郎が日本橋室町一丁目に山本海苔店を創業します。
明治2年(1869年) に味附海苔を創製。明治天皇の京都還幸に際し、御所への東都土産のご下命を賜り、味附海苔を苦心創案します。これを機に宮内省(庁)の御用を賜るようになりました。
「宮内庁御用達」が制度として公式に始まった1891年(明治24年)には、名実ともに宮内省御用達商人となりました。[注]
出典:「山本海苔店の歴史」山本海苔店(最終閲覧日:2019/1/16)http://www.yamamoto-noriten.co.jp/company/history.html
三輪山本
三輪山本は、創業300年のもっとも古い素麺製造会社です。
享保2年(1717年)に山本家中興の祖惣兵衛は近在の庄屋として農民に広く素麺製造を奨励します。
以来、惣兵衛の子、藤吉は「素麺藤吉」として広く名を馳せ、以降代々製造業、問屋業に励みます。
昭和3年(1928年)「宮内省御用」の栄誉を賜り、現在も伝統の素麺の味を守り続けています。[注]
三輪山本の素麺はのどごし、コシ、風味のバランスを考え、他の素麺が及ばないほどの細さを誇り、もはや麺の芸術品ともいえる逸品です。
出典:「三輪山本について」三輪山本(最終閲覧日:2019/1/16)https://www.miwayama.co.jp/history2
芳翠園
明治20年「老松園」を創業、昭和26年に老松園の販売会社として港区に「芳翠園」を創立します。
「老松園」は神宮司庁御用達として、天皇皇后両陛下や皇室の方々が伊勢神宮参拝の折に献上している唯一の茶園です。
「煎茶 名人憲太郎」は、勲四等瑞宝章叙勲、黄綬褒章をはじめ多くの賞を受賞した茶名人「杉本憲太郎」の名を冠し、芳翠園の品の中でも代表する逸品です。 [注]
出典:藤巻百貨店(最終閲覧日:2019/1/16)http://fujimaki-select.com/ext/royal/index.html
「芳翠園について」芳翠園(最終閲覧日:2019/1/16)https://www.tea.co.jp/fs/hosuien/c/company#c_top
今西清兵衛商店
今西清兵衛商店は奈良県の酒造販売会社で、日本酒「春鹿」の醸造元です。
明治17年 、今西清一が清酒、みりん、あられ酒の製造を始め、 明治27年に明治天皇にあられ酒買い上げの栄を賜り、宮内省御用達となります。[注]
味、コク、香り、すべての点で高品質を誇った南都諸白の伝統を伝え続けています。
出典:「会社概要」春鹿公式サイト(最終閲覧日:2019/1/16)http://www.harushika.com/company/
宮内庁御用達の日用品
青山花茂本店
青山花茂本店は1904年に創業、五代に渡り続く、宮内庁御用達の老舗高級生花店です。
仕入れる花は、どれも厳選された特級品で、秘伝の方法で徹底した鮮度管理しています。
政界、財界、芸能界、いけばな界などの多数の顧客を抱え、宮内庁や各国大使館などで国賓を迎える生け込みのアレンジも手掛けています。
山田平安堂
1919年、山田孝之助が日本橋に「山田漆器店」を創業しました。
後に、修行を積んだ京都にちなみ、現在の「山田平安堂」に社名を変更しました。
1994年、3代目である山田達男が「漆器をもっと若い方にも見て頂きたい」「漆器を通じてライフスタイルを提案したい」との思いで、渋谷・代官山へ移転し、現在に至ります。
宮内庁御用達を承った先人達の伝統を大切にしつつ現代のライフスタイルに合うような、食器だけでなく、カフスやかんざし、時計など新しい漆器の提案をしています。[注]
出典:「山田平安堂のこと」山田平安堂(最終閲覧日:2019/1/16)http://www.heiando.com/heiando.htm
銀座田屋
銀座田屋は明治から続く紳士洋品のお店です。
明治18年(1885年)山梨県出身の田谷常吉が、洋小間物商・田屋(現在の田屋の前身)を銀座一丁目に創業します。
当時は横浜港などで、イギリス人などから買い付けた、舶来の品が並んでいました。
明治38年(1905年)に銀座4丁目に田屋支店を開業します。この場所が後に、本店となります。
専門店でも珍しい自社工場を持つことで、生産から販売までの工程をすべて自社で行っています。
シルクを中心とした、高密度で高品質のオリジナル生地。少数生産ながら、豊富な柄を取り揃えています。
張りがあり、結びやすいネクタイや、上質な光沢と風合いを持つシャツ、ポケットチーフやシルクスカーフなどを取り扱っています。[注]
特にネクタイは皇族にも親しまれています。
出典:「田屋について」銀座田屋(最終閲覧日:2019/1/16)https://www.ginza-taya.co.jp/aboutus/history.php
前原光榮商店
東京台東区の前原光榮商店は由緒ある十六花弁の菊の紋章に見立てた「16間雨傘」を世に広め、上質な傘を作り続けています。
昔ながらの製法を受け継ぎ、熟練の傘職人による加工によって1本1本手づくりで製造した傘は、皇室の方々も愛用されています。
出典:「商品一覧 前原光榮商店」匠の傘専門店 みや竹(最終閲覧日:2019/1/1)https://www.kasaya.com/fs/kasaya/c/maehara
大倉陶園
大倉陶園は1919年(大正八年)大倉孫兵衛、和親父子によって創業されました。
日本における最高級の洋食器メーカーとして、伝統の技術を守るだけでなく、創業者のものづくりの心を引き継ぎ、新たなる挑戦を常に試みながら美術的価値の高い磁器を作り続けています。
「セーブルのブルー、オークラのホワイト」という言葉で賞賛された製品は、初期の頃はオーダーメードの食器がほとんどを占めていたため、一般の人の目に触れる機会は少なかったようです。
大倉陶園の陶磁器は、皇室をはじめ、政財界の著名人にも愛用されてきました。[注]
出典:「オールド大倉物語」大倉陶園(最終閲覧:2019/1/16)http://www.okuratouen.co.jp/about/story/
宮内庁御用達とは
「宮内庁御用達」という言葉は現在は、宮内庁や皇室が愛用しているものやお店、ブランドといったニュアンスで使われることがあります。
しかし、もともとは「宮内庁に出入りする商人」のことを指していました。
以前は、制度として宮内庁御用達がありました。
宮中へ商品を納入する業者は、幕末までは「禁裏御用」と呼ばれていました。
京都にある天皇の居所「禁裏御所」の御用を申し付けられる者という意味です。
明治期になると、宮中でも洋式を取り入れるようになり、西洋の品物を扱う商人が宮中の御用を申し付けられる機会が増え、御用達の業者の数が急増しました。
すると、宮中御用であることをみだりに宣伝に用い、また御用達であると偽って商売をする業者が現れるようになりました。
そこで宮内省(宮内庁の前身)は明治24年(1891)、「宮内省御用達制度」を正式に発足させ、一定の基準を設け、それに適合する業者に「宮内省御用達」と称することを許すことにしました。
しかし、その後も御用達の表記を濫用する業者が後を絶たず、警視総監は御用の濫用を禁止する論告を出し、取締りを強化しました。
それだけ「宮内省御用達」という表記は商売上重宝するものだったのです。
昭和10年(1935)になると、御用達制度が大幅に改正され、許可の基準がさらに厳しくなりました。
5年以上宮内省に納入を続けている業者であることが条件となり、様々な報告の義務が課され、「宮内省御用達」の称標の使用に5年間の期限が設けられ、その上、許可証の発行に当たっては、称標を広告などに濫用しないよう厳重な注意が与えられました。[注1]
御用達許可条件は厳しく、それまでの納入実績、商品の信用だけでなく店主の先祖に至る様々な調査があったようです。[注2]
それだけ厳しい条件の「宮内庁御用達」の指定を受けることは品質や企業・お店の信頼を保証することなのです。
終戦後、宮内省が宮内庁に変わったことで、「宮内庁御用達」となりましたが、昭和29年(1954)、御用達制度が廃止されました。
制度は廃止されましたが、今でも宮内庁や皇室に品を納めているところはたくさん存在し、「宮内庁御用達」と表記しているところもあります。
「公益社団法人 日本広告審査機構JARO」によると、現在では「宮内庁御用達」という文言は、歴史的事実として表示するような場合は使用できるそうです。[注3]
出典:[1]「宮内庁御用達とは何か」Amebablog『竹田恒泰の楚々たる毎日』
[2]「山本海苔店の歴史」山本海苔店(最終閲覧日:2019/1/16)http://www.yamamoto-noriten.co.jp/company/history.html
[3]「商品などに「宮内庁御用達」と表示しても問題ないのか?」『公益社団法人 日本広告審査機構JARO』